明日から、Kibidangoにとって今年最大級となるプロジェクトが、いよいよ一般公開されます。
その名は、ThermoScratch(サーモスクラッチ)。
温かい刺激と冷たい刺激を同時に肌へ伝えることで、人間の触覚に不思議な錯覚を起こし、爪で肌を傷つけることなく「しっかり刺激されたような感覚」を生み出すデバイスです。
開発したのは、大阪大学発の研究者スタートアップ、大阪ヒートクール株式会社。そして代表を務めるのが、伊庭野健造さんです。
私が伊庭野さんと初めてお会いしたのは、2023年1月。ラスベガスで開催された世界最大級のテクノロジーイベント、CESでした。
当時展示されていたThermoScratchは、3Dプリンターで出力されたような、まだ試作機の面影を色濃く残すプロトタイプでした。
率直に言えば、お世辞にも「カッコいい製品」と呼べるものではありませんでした。けれども、その中にある技術と発想は、ほかの展示品にはないほどオリジナリティに満ちていました。
温度で人間の感覚をハックし、単に面白い触覚体験を作るのではなく、「かゆくても肌を掻き壊さずに済む方法」を実用化しようとしている。
そこには、研究を現実の課題解決につなげようとする、大きな夢がありました。
子どもの肌を守りたい、という原点
ThermoScratch開発の出発点には、伊庭野さん自身の子育ての経験があります。
子どもが肌のムズムズに耐えられず、小さな手で皮膚を掻きむしってしまう。クリームを塗っても舐めてしまい、ミトンを着ければ蒸れてしまう。
「何とかしなくては」
そう思って調べるなかで、伊庭野さんは熱を利用してかゆみに働きかける海外製品を見つけます。しかし、熱刺激はかゆみの種類や肌の状態によっては適さない可能性もある。
そこで、大阪ヒートクールに集まった熱、材料、電気、知覚などの研究者たちとともに、「皮膚を実際に掻くのではなく、掻いたときのような刺激を錯覚によって作れないか」と発想を転換しました。
ThermoScratchが利用しているのは、「サーマルグリル錯覚」と呼ばれる感覚現象です。
人の皮膚には、温かさと冷たさをそれぞれ感じる仕組みがあります。危険ではない範囲の温かい刺激と冷たい刺激を同時に与えると、その信号が脳へ伝わる過程で混ざり合い、単なる温かさや冷たさとは異なる、ピリッとした強い感覚として知覚されることがあります。
この現象は、神経科学や触覚研究に携わる研究者の間では以前から知られていました。ThermoScratchは、この知覚の仕組みを独自の温冷制御技術によって再現し、肌を傷つけずに「しっかり刺激されたような感覚」を作り出します。製品では、温熱と冷熱を限られた範囲で同時に発生させる独自プレートを使用し、安全な温度帯に制御された刺激を肌へ伝えます。
最初のクラウドファンディングが残したもの
2023年6月、伊庭野さんたちはKickstarterで、ThermoScratchの製品化に向けた最初のクラウドファンディングに挑戦しました(当時のプロジェクトページはこちら)。
プロジェクトが終了したのは、同年7月24日。残念ながら、目標金額には届きませんでした。
当時の支援者は69人。うち49人は日本人でした。
ただ、今振り返れば、この挑戦があったからこそ現在のThermoScratchがあるのだと思います。
技術的に新しいだけでは、支援者に製品の価値は伝わらない。実験装置として機能しているだけでは、生活の中で毎日使いたいと思ってもらうことも難しい。
一方で、せっかくの技術が、製品として世に出ないまま終わってしまうのは、あまりにももったいない。
当時の私は、そんな思いを強く抱いていました。
そして、その気持ちが、自分を次の行動へと突き動かしたのだと思います。
技術だけでは、日常の道具にならない
ThermoScratchは、肌へ直接触れる道具です。
利用者が日々の生活のなかで自然に手に取り、体の気になる場所へ当てるものだからこそ、持ちやすさ、操作の分かりやすさ、安心感、清潔感、そして「身近に置いておきたい」と思える佇まいが必要になります。
そこで2023年9月、当時きびだんごのスタッフとして働いてくれていた青井さんの以前からの知り合いである気鋭のプロダクトデザイナー、石井聖己さんをご紹介しました。
石井さんのことは、私自身、青井さんを通じて独立される前の富士通時代から存じ上げていました。
1986年京都生まれ。フィンランドでインダストリアルデザインを学び、米国スタンフォード大学の国際的なデザインプロジェクトにも参加。京都工芸繊維大学大学院を修了した後、2012年から富士通デザインに勤務し、2017年にSEIKI DESIGN STUDIOを設立されています。
石井さんは、家電、家具、生活用品など幅広いプロダクトを手がけ、iF DESIGN AWARDやGOOD DESIGN BEST 100などを受賞しています。
ただし、石井さんの仕事の価値は、単に見た目をきれいに整えることだけではありません。
その製品が、誰に、どのような状況で使われるのか。使う人はどこに触れ、どのように持ち、どこに置くのか。複雑な技術を、どうすれば説明書を熟読しなくても扱える道具にできるのか。
そうした人と製品の関係を丁寧に観察し、技術の本質を損なわずに、自然な形へ翻訳していくことが、石井さんのデザインの強みだと感じています。
1年で、試作機から「プロダクト」へ
翌2024年1月、私は再びCESの会場で伊庭野さんとお会いしました。
そこで目にしたThermoScratchは、前年とは見違える姿になっていました。
試作機らしい無骨さや露出していた要素が整理され、丸みを帯びた、手の中に自然に収まるデザインへ。
医療機器のように緊張させすぎず、それでいて玩具にも見えない。技術の新しさを声高に主張するのではなく、日常のなかに静かに置ける道具へと変わっていました。
石井さんの仕事は、単に外側を格好よく包むことではありません。
ThermoScratchの「肌に当てる」「温度を伝える」「安全に扱う」という本質的な体験を整理し、研究者の技術を、利用者の身体に近い形へ翻訳することだったのだと思います。
研究者の間で知られていた現象を、「未来の」暮らしの道具へ
サーマルグリル錯覚そのものは、新しく発見された現象ではありません。
また、この錯覚をかゆみへの刺激に応用しようとする研究も、過去に存在しています。
しかし、論文や研究室の試作機と、一般の人が毎日の暮らしの中で使える製品との間には、途方もなく大きな距離があります。
温かさと冷たさを小さな筐体の中で精密に制御する。肌に触れるプレートの形状を整える。錯覚の感じ方に個人差があるなかで、分かりやすく安全に操作できるようにする。さらに、持ち運びやすさ、耐久性、製造方法、コスト、品質管理まで、一つずつ解決しなければなりません。
大阪ヒートクールは、ペルチェ素子に関する特許技術を活用し、コンパクトな本体の中で温熱と冷熱を同時に発生させ、精密に制御する技術を約5年かけて製品へと仕上げてきました。
私たちが確認した限り、研究者の間で知られていたサーマルグリル錯覚を、これほど美しく、持ち運び可能で、日常的に使える製品へ落とし込んだ例は、世界でもほかに見当たりません。
ThermoScratchの「世界初」と呼ぶべき価値は、錯覚そのものの発見ではなく、研究室に存在していた知見を、ここまで完成度の高いプロダクトとして社会に実装したことにあるのだと思います。
失敗を経て、もう一度量産へ
最初のKickstarterから約3年。初めて伊庭野さんとお会いしたCES 2023から数えれば、約3年半が経ちました。
その間、大阪ヒートクールの皆さんは、何度も設計を見直し、試作と検証を重ねてきました。
2023年のKickstarterは、目標金額には届きませんでした。しかし、それは単なる失敗ではなかったのではないかと思います。
技術の価値を、どうすれば生活者に伝えられるのか。研究装置を、どうすれば人が手に取りたくなる製品にできるのか。安全性、デザイン、価格、製造、伝え方をどう整えるべきなのか。
あの挑戦で突きつけられた問いに、一つずつ向き合ってきた時間が、現在のThermoScratchにつながっているのではないかと思います。
現在の製品は、温熱と冷熱を同時に肌へ伝えるモードに加え、冷感だけを与えるモードも備えています。刺激の強さも4段階から選べ、USB-Cで充電し、屋外へ持ち出すこともできます。
研究者のアイデアが、デザイナーとの出会いによって姿を変え、何度もの試作を経て、ようやく量産可能な製品になろうとしています。
私たちKibidangoが惹かれるのは、最初から完成された商品だけではありません。
まだ荒削りでも、その奥に誰も見たことのない可能性があるもの。研究者や発明家の頭の中にあるアイデアが、デザイナーやエンジニア、製造者、そして応援してくださる皆さんとの出会いによって、少しずつ現実の形になっていくプロセスです。
ThermoScratchは、まさにその象徴のようなプロジェクトだと思っています。
研究室で知られていた「錯覚」が、肌の悩みを抱える誰かの日常に寄り添う道具になるのか。
一度は届かなかった量産への挑戦が、今度こそ実を結ぶ。いよいよ、その最後の一歩が始まります。
ぜひ、長い時間をかけて育てられてきたこの挑戦を、一緒に応援していただけたら嬉しいです。
ThermoScratchプロジェクトのリンクはこちら。







